「ミロシェビッチ大統領」
 

昔から奇妙な事件だと思っていたが・・・・
あのかつてのユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領についてです。
何が真実だかわからなくなってきますね、、、
すたーふぉーるの読んだ本も嘘かもしれないですが。。。
確かに西側(日本も)のメディアでミロシェビッチの証言が大きく取り上げられることはなかったようです。
もし、ミロシェビッチが真実を話していたとするなら、とてつもなく貴重な証言になりそうです。
実は病死ではなく、毒殺されたという噂もあながち嘘ではないかも。。
ミロシェビッチの証言は西側には都合が悪すぎてとても流せない内容なのです。。。



結局、旧共産主義国だけでなく、米欧、日本政府も異常で、、、
地球上にまともな政府というのは存在してなかったのかもしれませんね。。。
存在していたのは「異常な政府」と「国民に正常だと思わせた異常な政府?」




ウィキペディアから、と。
前回同様、
『ビヨンドコンスピラシー 陰謀を超えて』
ジョン・コールマン著からです。



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スロボダン・ミロシェビッチ
(ウィキペディアから)

ベオグラードの東約70キロの町ポジャレヴァツで生まれる。少年時代は学校の共産主義科目を得意としており、「小レーニン」と呼ばれた。ベオグラード大学法学部卒業後、ベオグラード情報局、ガス産業、ベオグラード銀行等、実業界で活躍した。政界に転身し、1978年- 1982年、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となり、1987年、コソヴォ訪問時、アルバニア人から迫害されたセルビア人と出会い、彼は「もはや侮辱されることはないだろう」と語った。それ以来、セルビア民族主義者中で人気を獲得し始めた。1986年にセルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長に就任。自身の権力強化のために、セルビア民族主義を国民に扇動し、利用した。
1987年にイヴァン・スタンボリッチが辞任したのを受けて、セルビア共和国幹部会議長に就任した。スタンボリッチは2000年に何者かに誘拐され、2003年に死体で発見された。セルビア国家保安庁・特殊作戦部隊による犯行と見られている。
1990年には新設のセルビア共和国大統領に就任。1992年にミラン・パニッチ首相を破り再選された。1997年にはセルビア共和国大統領の任期切れを前にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)第3代大統領に就任した。大統領になってからは、毎日治安機関から出される報告書に目を通していたといわれ、情報・治安機関を使って政敵や野党勢力の動向監視や民主化運動を容赦なく弾圧していた。
1991年にはスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。また1998年以降激化したコソボ紛争を治安部隊により弾圧したが、1999年のNATOによるユーゴ空爆後、コソボの国連管理を容認することとなる。
2000年秋、再選を目指し国民による直接投票となったユーゴスラビア連邦大統領選挙の際、選挙不正に怒った国民の抗議行動、いわゆる「ブルドーザー革命」により退陣し、連邦大統領の座をセルビア民主野党連合のヴォイスラヴ・コシュトニツァに譲った。コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、経済援助を条件にするNATOの圧力の下、2001年4月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕・収監された。同年7月には同国憲法に違反して国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)に身柄を移送され、以降人道に対する罪などで裁判が行われた。上記のスタンボリッチ殺害の容疑も、含まれている。
高血圧など体調の不具合という理由、また容疑事実の立証がなされなかったため、裁判は非常に長引いた。2006年3月11日朝、収監中の独房で死亡しているのが発見された。死因は心臓発作とされている。


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法廷で証言台に立った、ミロシェビッチ
『ビヨンドコンスピラシー陰謀を超えて』
から(一部)。



『ユーゴスラビアは多様な文化と遺産を持つ近代連邦国家だった。摩擦などほとんどなかった。誰がマケドニア人だとかクロアチア人だとかいったことは、外国の連中、特にアメリカのホルブルック(元国連大使)が言い出したことだ。問題が起こってきたのはそれからだ。自分たちの生活のことを第一に考えている人間は、ユーゴスラビアの解体を唱えたりはしない。クロアチア人の中にはボスニアに住んでいる者だっているし、イスラム教徒にしてもそうだ。小国に分裂したら私たちがどうなるかを考えれば、答えは既に出ている。

ヨーロッパでは、文化や民族の違いが問題にされることはない。異なる文化や民族に敬意を払うという常識を、すべての国が確立するべきだ。ユーゴスラビアにはそのような常識があった。NATOは我々とは同盟関係にあったはずだ。

同盟というのは、対等の国の間に結ばれるものだろう。だが実際には、NATOは超大国アメリカの軍事装置に過ぎなかった。世界最強の国であるアメリカが、主導的立場に立ちたいと考えるのはわかる。善意でそのような役目を果たすこともできただろう。だが、アメリカはカエサルになることを選び、他の国々に流血と死をもたらしてきた。失われたのは一世紀どころか、千年分後退したわけだ。これが悲劇でないというなら、もう笑うしかない。

今やすべてがはっきりした。これから話す史実について考えてもらいたい。1997年の10月、欧州南東部の国々の指導者全員が集まり、理解が育まれた。私はその場で、こう提言した。「私たちでできることを何かやりましょう。ここに集まった国の間では関税を撤廃しませんか。」

素晴らしい会議だった。アルバニアのファトス・ナノ首相ともいろいろなことを話し合うことができた。国境の解放についても議論した。彼はコソヴォについて、「私の国の内政問題だ」と言っていた。あの会議で明らかになったのは、欧州南東部では相互の話し合いで問題を解決できるということだ。

一ヵ月後、私はドイツのクラウス・キンク外相とフランスのユベール・ヴェドリーヌ外相から、アルバニア人に関して大きな懸念を抱いているという主旨の書簡を受け取った。BND(ドイツの情報機関)が1998年にいわゆるUCK(KLA)を組織したのは予想されたことだった。彼らは銃撃を始め、郵便配達人や森林労働者が殺されたり、喫茶店や野菜直売所の近くに爆弾が投げ込まれたりした。我々は普通の国が取るべき対応を取り、1998年の夏には彼らを壊滅させて撃退した。

このとき、バルカン特使としてリチャード・ホルブルックがやってきて、武装した人員をコソヴォに送るよう要請してきた。「監視員」だと彼は言っていた。

私は彼と話し合ったが、まるで不毛だった。ある日問題が解決したかと思うと、ホルブルックが次の日に蒸し返すのだ。私が「それは昨日終わった話でしょう」と言うと、かれは「私は指示に従っているだけです」と言う。ホルブルックは監視団と称して、2万人を派遣したがっていた。従わなければNATOが空爆するという脅し付きだった。

我々はこの脅迫の影響を最小限にとどめようとした。国際世論にも訴えた。同時に、ホルブルックの要求を2万人から最終的に2千人にまで減らして、「監視団員」を非武装ということにさせた。少なくとも直接の武力侵攻は回避できたわけだが、主権侵害であることに代わりはなかった。彼が監視団の長に据えたのは、ウィリアム・ウォーカーという犯罪者だった。エルサルバドルで暗殺部隊と関わっていた男だ。表向きは外交官ということになっているが、彼の下にいた監視団員はほとんどがディンコープ社というダミーの民間企業に属する諜報員だった。ディンコープ社はロッキードと同じようにすべての収益を政府と軍との契約に頼っている。要は民間の諜報機関で、ペンタゴンをはじめとする米国政府機関に情報提供活動を行っていたのだ。

ウォーカーはエルサルバドルでの経験を利用してラチャクの虐殺をでっち上げ、それをマデレーン・オルブライトがランブイエで最後通告の口実にした。「交渉に応じなければ、空爆する」と言われた。国際法では言うまでもなく脅迫に基づく協定に法的拘束力はないが、そんなことは彼らにとってはどうでもよかった。我々はこの「交渉」を我々の立場を訴えるのに利用することにした。我が国の代表団は、国内のさまざまなグループで構成されていた。セルビア人、アルバニア人、ゴラニ(スラブ系イスラム教徒)、ロマ(ジプシー)、トルコ人などだ。UCK(コソヴォ解放軍)がほとんどを追い出してしまったが、その前はこれらの人々がいたのだ。

ところが、私たちの代表団がフランスに到着する3日前に、ランブイエ「合意」の全文がアルバニアの新聞に掲載されていた。おわかりだろうか。事前に書き上げられていたのだ。代表団はこの合意文書に目を通し、一人がアメリカ人に文面を見せて言った。「ひどいですね。ナンセンスだ。」すると、アメリカ人の一人が言った。「何を言う。我々の最高のブレーンの一人、ジェームズ・オブライエンが書いたんだぞ。チベット自治の文書も彼が一人で書き上げている」

我々が置かれていたのはこういう状況だった。そしてビル・クリントンだ。あろうことか、「セルビア人が第一次大戦と第二次大戦の元凶だ」などとぬかした。イスラエルの新聞は私への取材で、メディアのセルビア叩きは一種の民族抹殺なのではないかと言っていた。結局、このバッシングで空爆は正当化された。爆撃を受けたのはほとんどが民間人で、一般の人々の生活が無残にも破壊されたのだ。

第2次大戦後に空爆を受けたヨーロッパ人はセルビア人だけだ。総計2万2千トンもの爆弾が投下された。メディアの大規模なねつ造報道がなければ、西側の普通の人々はこんな暴挙を許さなかっただろう。セルビアを徹底して悪者扱いした西側メディアの報道が、戦争で決定的な役目を果たしたことは間違いない。これによって国際世論が抑えられた。民族抹殺の一因と言っていい。

NATO諸国の人々は、今も自分たちが騙されたことに気付いていない。自分たちの社会にとってもマイナスになったということも理解していない。クリントン政権は表向きは民主的なシステムに嘘を吹き込み、真の民主主義が実現されないようにしている。嘘の情報しか与えられていない人間が、どうやって正しい判断を下せるというのか。

ユーゴスラヴィアの破壊は、アメリカをはじめとする勢力が新たな植民地主義に手を染めたことを如実に物語っている。世界を一つにまとめるという彼らのスローガンが本物なら、ユーゴスラヴィアを解体したりしなかったはずだ。この国はまさにそのような理想を体現していた。彼らの言う統一が、人々が平等に扱われる、正当なものであるなら、誰も反対したりはしないだろう。だが、新しい植民地主義は少数を豊かにし、大多数を貧しくする。国も潰される。国がなくなれば独立も自由もない。これまで闘ってきたものすべてが失われる。国がないのにどうやって繁栄を目指せるのか。私たちは今、国の主権を脅かす新たな植民地主義に直面している。そのことに気づけば、結束して立ち向かうことができる。左派はそのことに気づいていた。帝国軍が左派勢力にスパイを潜り込ませたのはそのためだ

・・・・・』





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2011.10.08